あの日から10年

2021年3月11日 午後2時46分 

1分間の黙祷を捧げた後、このブログを書き始めました。あの日から10年の節目なので、このブログを上げさせて頂きます。当時の体験談を多く語らせて頂きます。この様な事があった、この様な経験をしたという事に対して、少しでもご理解を持って頂けたら幸いです。

 

10年前の3月11日、当時中学1年の終わりを迎えようとしていた時に起こった東日本大震災

 

その時は突然やってきました。その日オフだった私は、当時住んでいたマンションの共有スペースの様な所で友人と遊んでいました。そして14時46分に震災発生。何気ない楽しい日常を、地震は一瞬にして全てを壊してしまいました。

 

私は運良く、安全な棚の下に友人と共に隠れ、ケガは無く命も無事でした。その後、水道や電気などのライフラインが全てシャットアウト。復旧まで3日間を要しました。

 

次の日は、部活の練習試合が組まれていましたが、そんな事言ってる状態ではありませんでした。ですが、目先の現状を受け入れるには、相当な時間が掛かりました。

 

その後、仕事に出ていた母、学校帰りの弟と合流。父はその時、関東に単身赴任だった為、安否確認の後、無事が確認。当時はスマホほど、ガラケーが流通していなく、携帯を持ってる学生も少なく、当然サーバーも混み合う為、安否確認が取れるかも不安でした。

 

家族全員がケガ無く無事なのは良かったですが、僕たち息子2人を励ます母は、流石に動揺を隠せない表情。そして当時小学生の弟は、目の前の光景に訳も分からずただ涙を流す状況でした。

 

母が司令塔となり、先程まで遊んでいた共有スペースを避難場所として、行動開始。すでに壁にはヒビが入り、外を見ると瓦礫が落ちている。そして夜は、電気が使えない為、ロウソクを付けて過ごすという過酷な環境でした。当時の仙台は3月ですが、雪も降っていた為、気温が低く、体調管理も厳しい状況下の元で、生き抜かなければなりませんでした。

 

ライフラインが復旧するまでの3日間は、崩壊した部屋の中から、お金をかき集め、近所のスーパーやコンビニを手分けして長時間並び、その日生き抜く為の食糧や水を買い、それ以外は部屋を直したり、支援物資を貰ったりなどをして、なんとか耐え抜きました。駅前のココイチで、かろうじて買えた1杯のカレーを3人で分け合って食べたのを今でも覚えています。

 

また、避けては通れない、排便は近所のコンビニや市役所で済ませたものの、風呂はどうしてもガスが必要となる為、3日間は入れませんでした。かろうじて赤ちゃんのお尻拭きの様な物で身体を拭き取る位しか出来ませんでした。見た目や汚れに気にしていられない、そういった環境で過ごす3日間は、生死に大きく関わる3日間だったと言えます。この3日間で、髪の毛は脂、身体は汚れや垢まみれ、体重もわずか3日で3〜5キロ落ちました。

 

私が住んでいるのは仙台市内でしたが、地震発生直後に、沿岸部では大きな津波が発生。多くの死者、行方不明者を出し、現在も多くの方々が見つかってない状態です。テレビでその時の映像が流れますが、黒い波が街を襲っていく、その様な光景を画面越しに見て、とても心が痛くなりました。

 

さらに、追い討ちをかける様に、福島県原発が、爆発する原発事故が起こりました。原発が爆発した事により、放射線が発生。住む事が 困難となり、多くの方が避難されました。

 

建物、人々、思い出、歴史を一瞬にて崩してしまう恐ろしい自然災害。自然の試練としては、あまりにも残酷でした。地震が起きて数時間後、当時中1の私も、何も出来ない虚無感と、これからどうすれば良いのかと言う喪失感に襲われたのを覚えています。

 

震災の影響はその後の生活にも生じました。中1から中2に進級してからの学校生活は、隣接する小学校の空き教室を間借りしての授業でした。僕は当時2年6組に所属しており、広い教室を隣の2年5組と、ダンボールで出来たロッカーで区切り、仮設校舎が出来るまでの数ヶ月を過ごしました。部活動等で体育館は使えたものの、卒業まで本校舎に戻れませんでした。

 

筒抜けなので、休み時間や授業中は、お互いの声が聞こえる状況。小学校の間借りなので、大きな声が出せません。

さらに、最初の1ヶ月間の給食は、簡単なパン、牛乳が1本貰えるのみで、おかずは自分の家から持参する簡易給食の様なものでした。

 

また、大好きなプロ野球も4月に開幕が遅れ、計画停電が行われ、使用電力を抑える為、翌年まで3時間半の試合制限を設けるルールでのシーズンとなりました。正直、プロ野球を観れる状況だったのか微妙でしたが、プロ野球選手のプレーに勇気を貰いました。

 

あれから10年、まだ完全に復旧した訳ではありませんが、東北は復興地として、少しずつ希望のシンボルとして前に向かっています。

現在は、コロナウイルスが世界中に蔓延しており、震災と似てるのはどちらも予期せぬ出来事だと思います。コロナウイルスは、誰も予想できなきった出来事でしたが、地震などの自然災害は明日起こってもおかしくない状況です。あらかじめ水の確保や、避難場所の確認などを行う事が大切だと改めて思います。

 

また、2011年3月12日以降に生まれた方は、当然どの様な震災だったかは分かりません。ですが、この経験と事実は、今後も語り継いで欲しいと思います。その反面、3月11日のTwitterを見ると、「黙祷なう」などと呟いてるのを見ます。面白半分でやってるのかは、分かりませんが、その時の当事者として、そして被災された方への冒涜へ繋がるので、イチブロガーとしてはその様なツイートはとしてやめて頂きたいです。

 

あの日から10年経ち、中学、高校を卒業し、今では社会人として働かせて頂いてます。働ける事、好きなプロ野球を観れたり、趣味に時間を掛けられること、大切な人が当たり前の様に隣にいてくれる事、そして今を生きていられる事に感謝して、これからも頑張っていきたいと思います。

 

頑張ろう、東北