お母さん、ありがとう

2022年1月16日午前11時25分

 

年も明けたばかりの2022年に、筆者の最愛の母がこの世を去りました。享年49歳という早すぎる死を迎えた事、亡くなった日から母とはもう二度と会話も会う事も出来ない事、今後は母がいない日常が無くなる事、それを受け入れるにはかなりの時間が掛かりそうです。

 

母は25歳の時に、長男として筆者の私、そこから3年後に弟を出産し、2児の母でもありました。兄弟2人とも成人して、人生まだまだこれからの時に、突きつけられた現実は無情なものでした。

 

生前母は、私たち兄弟の事を常に優先的に考えてくれて、全てにおいて正しい事に導いてくれました。平等にお金と愛情を与え、時折の厳しい指導で、私たち兄弟をここまで育ててくれました。

 

小学生の時は、風邪を引いた時や誰かと揉めたりした時に、職場を休んで来てくれて代わりに頭を下げてくれた事。

中学生の時は、志望校選びで悩んでた時に、自分で候補の学校を調べて後押ししてくれた事。

高校生の時は、周りに反対されてた大学進学せずに高卒で働く事に、唯一賛成してくれた事。

社会人になってからは、仕事での悩みや不安を夜遅くまで聞いてくれた事。

 

当たり前にやってくれた様に思いますが、母には迷惑と苦労と負担をたくさんかけてきたと思っております。

 

その反面、プライベートでは大好きな旅行やライブ、ドライブやお出かけなど、楽しむ時は楽しむ母で遊ぶ時は童心に帰って、子供の様に楽しむとてもメリハリが出来ていた母でした。

 

 

そんな母は、2020年10月に癌を患いました。発見した時はステージ3か4と、かなり危険な状態でした。

 

1年4ヶ月に及ぶ闘病生活をここで書かせて貰います。

 

まず私たちの家庭の事を触れさせてもらうと、2019年から2020年の年末まで、家族は一時的に別居状態で過ごしていました。

 

その約2年間は当時、私と弟と母と3人でアパートに住んでいました。そこでの生活は少し過酷で、狭い部屋を3人で分け、お金も社会人の私と母が出し、なんとか生活していました。

 

母はそんな状況から、スーパーの仕事から、とある倉庫の仕分けの仕事に転職。賃金が高く、長時間労働が出来る会社でもありましたが、帰る時間も遅くなり、帰っても家の家事や、次の日の準備であっという間に深夜になる状態でした。

 

当時3人で住んでいたアパートは、2LDKで、私たち兄弟に一部屋ずつ与えると、母の部屋はありません。母は生活音鳴り、光や冬には冷気が差し込むリビングで布団を敷いて寝る状態でした。

 

満足な疲労を回復出来ず、毎日仕事や家事を両立することは想像以上に大変でもあり、体調を崩す日も年何回かありました。

 

それでも3人で、出来る限りの幸せを見つけ、協力して過ごしていました。しかし、その代償が翌年になって来るのをまだ知る余地もありませんでした。

 

迎えた2020年、世の中がコロナウイルスの影響で大きく世界情勢が変わる中、私たちは幸運にもコロナ感染にはなりませんでした。

しかし、別の病に母は侵される事になりました。

 

年も終わりが近づく10月のとある日、体調不良を訴えた母が病院で検査を受けました。その時の体調不良がいつもの風邪と違うと感じたそうです。

私はその日仕事だった為、昼に弟から衝撃の事実が電話で告げられました。

 

「お母さん、癌になった」

日本で最も死者の割合が多い病気。それが癌です。

 

その日の仕事を早急に終わらせ、帰宅すると、少し悲観した表情の母から、癌の宣告を改めて受けました。

 

先述の通り、当時ステージ3〜4の進行度合いの悪化速度、癌に侵された場合、5年以内に亡くなる確率が高い。

そして最悪のシーンを想像する。そんな事しか頭の中のイメージは膨らみませんでした。

 

そして、母の「最後のわがまま」として言われたのは、家を建てて欲しいとの事でした。

 

母の最後のわがままと称し、父を呼び寄せ、約1ヶ月半をかけて、自宅を建てました。

表向きは、みんなで過ごす住む家を建てる事ですが、家を建てた本当の理由は「母の病気の治療に専念して貰う為」でした。

 

家を建ててからは、治療に専念する為、倉庫の仕事を退職。抗がん剤での治療を行い、病気と闘う道を選びました。

 

最初は抗がん剤の効果により、癌の細胞が小さくなっており、癌告発よりだいぶ良くなってるとお医者様に言われました。

このまま順調に抗がん剤の治療を進めていこうとした中で、夏頃から問題が2つ発生しました。

一つ目は、「今使ってる抗がん剤では効き目が頭打ちになるので更に強い抗がん剤に変更しないといけない事」

二つ目は、「コロナワクチンの接種をする事」でした。

 

一つ目の問題点は、最初に投与していた抗がん剤ではいずれ効き目がなくなり、更に効果が強い抗がん剤を投与しなければならないというもの。一見、抗がん剤を変えれば済む話だと思いますが、これには副作用があり、「髪の毛が抜ける」というものでした。

 

この話を持ち出された時、母にとっては大きな分岐点だったと思います。もちろん命には変えられませんが、髪が抜けるというのはどうしても女性として受け入れられなかったのです。

 

結果的に一度強い抗がん剤の投与をしましたが、副作用による髪の毛の抜け、更に嘔吐が止まらない事から、強い抗がん剤での治療は断念しました。

 

更にこのタイミングでコロナワクチンの接種も重なっていました。個人的に、ここが母の体調を一気に悪化させた原因だったと思います。

 

先ほども書いた強い抗がん剤での投与の数日後に、ワクチン接種が控えていました。ワクチン接種により副作用が発生。先述の抗がん剤の副作用、気持ち悪さも残っていた為、病院に搬送。そのまま数週間の入院となりました。

 

元々以前の手術により、腎臓に管が通っており、その管の影響もあり、満足に副作用等の処理が出来なかったのも原因として挙げられました。

 

そこから母は体調を更に崩し、11月末には比較的元気だった上半期と比べて、その姿は全く違うもので、食事も全く取れず、晩御飯の一部のみを食べる形になりました。

 

そして12月に入る頃にお医者様より「最期を迎えるのはどこが良いですか?」という通告がありました。闘病中も弱さを見せなかった母が、唯一弱さを見せ、涙を流すほど悩んだ通告でした。

母は家にて最後を迎える事を決意。その後は自宅での治療を選択。家にお医者様が来られて、治療を受ける形となりました。

しかし、病院の様な設備が家にあるわけでもなく、最低限の診察とと渡される薬の接種での治療となりました。

当然出来る事も少なく、みるみるうちに母は衰弱。家事はもちろん、お風呂やトイレも行く事もままならず、お風呂はヘルパーさんに髪を洗ってもらう、トイレはオムツや簡易トイレに用を足して、我々が片付けるといった状況でした。

 

それでも母は1日でも長生きにする為、限られた中でも必死に癌と向き合ってました。

 

そして年が明けた2022年、母の死期が近づいてきたのを感じました。

半年前に比べたら、腕や脚もだいぶ痩せこせてしまい、起き上がるのにも精一杯の状況となりました。食事もかろうじて食べられたのは、ゼリーやジュースなど流しやすいもののみでした。

 

そして亡くなる前日の1月15日、先に起きていた弟に起こされ、下の階にいる母の元へ向かいました。トイレに連れて行って欲しいと言われ、身体を起こそうとしましたが、母の身体は全く力が入らず床に倒れ込む様な姿勢になりました。それどころか昨日は比較的元気だった表情も全く正気を感じられず、目も虚ろだったのを覚えています。

 

慌ててお医者様を呼び、ベッドに戻すと後に父と祖母と母の妹が到着。お医者様からは「もって今日、明日、頑張って明後日」と言われ、事実上の余命宣告を受けました。

 

その日から会社を休み、出来る限りの事をして、母の看病をしました。よく病人は苦しんでいても周りの音は聴こえているという事を聞いていたので、あえて悲観な感じは出さず、普段通りで接する事を心がけました。

寝る前に、母の手を握り「かーちゃん頑張ってね」と言って、その次に返ってきた言葉は「明日もいて欲しい」でした。

 

この母の言葉が最後の言葉となり、翌日家族に見守られながら、静かに息を引き取りました。

この最後の母の言葉が、自分の死期を感じていたんだなと思うと、最期は息子である私に見守って欲しいと思いました。

 

ここまでが1年4ヶ月に及ぶ母の闘病生活となります。

息子の私からして、肉親でもあり、母親を失うという事は、ここではどの様に表せば良いか、そして母がいないと言う現実を未だに受け入れられません。

 

「母に対して恩返しや親孝行は出来ていたか?」

「母から見て自分は立派な息子だったと言えたか?」

「俺を息子に出来て幸せだったかい?」

亡くなってから色々考えさせられます。

更に世の中がこう言ったご時世というのもあり、何気ない日常もより一層大切にしていきたいと思います。

 

20年前に私の母方の祖父も同じ癌で亡くしました。私にとって大切な人2人の命を奪った癌は、非常に憎く、非常に残酷で、何に対し憤りを感じれば良いのか分かりません。

 

生前の母は、癌が治って、コロナが収まったら大好きな旅行に私の自費で連れて行ってもらう、今後の楽しみは、結婚相手や孫の顔を見る事と言っていたのを昨日の事の様に感じます。

そんな明るい未来すらを奪った癌は、正直、コロナより癌の方が私にとって、重い病気だと感じます。

(語弊のある書き方で申し訳ございません)

 

旅行にも結婚相手や孫の顔を見せられなかった‥。そんな後悔がブログを書いている今の残ります。今後も様々な後悔に駆られながら、人生を過ごしていくと思います。

ですが、残された私たち家族が、これからを生きていく為には、長い残りの人生を母の分までしっかり生きていかなければなりません。

自分を見失わず、しっかり自分を持って、今後の人生を一生懸命に生きていく事が、母に出来る最後の恩返しとなると思います。

 

母を失った悲しみというのは、まだ受け入れるにはかなりの時間がかかると思います。

しかし、母から学んだ事、母の遺志を継いで、今後の人生を全うしていきたいと思います。

 

お母さん、今までありがとう

ゆっくり休んでね

そして、いつまでも天国から見守っててね